LOGIN鏡の中の娘が笑わなくなったのは、三週間前からだった。
最初に気づいたのは母親ではない。
九歳の娘本人だった。
「お母さん、私、変な顔してる?」
日曜日の朝。
洗面所で歯を磨いていた高梨美緒が、隣で化粧をしていた母の遥香にそう尋ねた。
「寝起きだからじゃない?」
「そうじゃなくて。鏡の私」
「鏡の私?」
遥香はファンデーションを塗る手を止めた。
鏡には、母娘が並んでいる。
遥香。
美緒。
どこにも変なところはない。
「普通じゃない?」
「でも、私笑ってるよ」
遥香は娘を見る。
美緒は確かに笑っていた。
<第26話 私の家には、私がもう一人いる 森下沙紀が、自分自身と玄関で鉢合わせたのは、北海道出張から帰宅した翌日の午後二時十三分だった。 その女は沙紀の鍵で玄関を開けた。 沙紀と同じ身長。 同じ肩までの黒髪。 同じ黒い革鞄。 顔まで同じだった。 ただし服だけが違う。 本物の沙紀は部屋着姿でリビングのソファに座っていたが、玄関から入ってきたもう一人の沙紀は、三年前までよく着ていた紺色のジャケットを身につけていた。 もう一人は靴を脱ぎ、顔を上げた。 二人の視線が合った。 沙紀は立ち上がった。「……誰?」 自分の声が震えているのが分かった。 女は驚かなかった。 むしろ、長いあいだ待っていた人間がようやく現れたように、少しだけ表情を緩めた。「私だよ」「何言ってるの」「沙紀」 自分の名前を、自分の声で呼ばれる。 沙紀はソファの背へ手をついた。「出ていって」 女は動かない。「警察呼ぶから」「やっと帰ってきたんだね」 その言葉を聞いた瞬間、沙紀の身体から力が抜けた。 誰かに殴られたわけでもない。 脅されたわけでもない。 それでも、息ができなくなった。 その言い方。 声の調子。 最後だけ少し上がる語尾。 自分の声なのに、自分の言葉ではなかった。「どうして……」 女は沙紀の横を通り過ぎた。
第25話 廃遊園地の観覧車だけが回っている 閉園して十二年。 電気も切られ、制御盤も撤去された観覧車が、午前二時四十分になると動き始める。 一周目、ゴンドラには誰もいない。 二周目、一人。 三周目、二人。 回るたびに子供が一人ずつ増えていき、七周目で観覧車は止まる。 そして三日前から、その七人の中に、現実に行方不明になっている七歳の少女が映っていた。 ◇「最初に申し上げておきますけど、この映像に結衣ちゃんが映っているからといって、亡くなっているとは限りません」 久世環は、相談室のモニターに映った少女から目を離さずに言った。 佐藤結衣。 七歳。 小学一年生。 三日前の午後三時半ごろ、自宅から姿を消した。 母親がほんの二十分ほど買い物へ出た間のことだった。 自宅には小学五年生の兄もいたが、二階の自室でゲームをしており、妹が外へ出たことに気づかなかったという。 防犯カメラには、自宅から一人で歩いていく結衣が映っていた。 その後、住宅地の外れで一度だけ確認されたが、そこから先の足取りは分からない。 警察と消防、地元住民が捜索を続けている。 閉園した遊園地までは、結衣の家から直線距離で三キロ近くある。 七歳の子供が一人で行けない距離ではない。 だが、なぜそこへ向かったのかは不明だった。「でも、この子ですよね」 佐伯蓮が動画を一時停止する。「家族が確認したなら」 三好真琴が頷いた。「母親は『結衣に見える』と言っています。ただ、映像が荒い。警察も本人と断定はしていません」 ゴンドラの窓越し。
第24話 死んだ犬が玄関を引っかく夜 若林家で十六年飼われていた犬のハルは、六月の終わりに死んだ。 雑種の雄だった。 柴犬よりひと回り大きく、茶色の毛に、胸元だけ白い毛が混じっていた。若いころは散歩へ連れていく人間を選ばず、リードさえ見せれば誰にでも尻尾を振ったが、十二歳を過ぎたころから長い散歩を嫌がるようになり、最後の一年は家の周りをゆっくり一周するだけで満足していた。 病気で苦しんだわけではない。 食べる量が減った。 寝ている時間が長くなった。 ある朝、家族が起きたときには、いつも使っていた居間の座布団の上で眠るように死んでいた。 家族四人で見送った。 火葬にも全員で立ち会った。「ちゃんと送れたと思ってたんです」 電話をかけてきた長男の若林颯太は、久世相談室でそう言った。 二十七歳。 都内の食品会社に勤めており、現在も両親と同居している。「ちゃんと、というのは?」 久世環が尋ねる。「もっと何かしてやればよかったとかはありますよ。最後の日、俺が残業で遅くなって、帰ったころにはもう寝てたし。でも家族みんなで火葬して、骨も拾って、写真も飾って」「後悔がないわけではないけれど、見送った実感はあった」「はい」 颯太の母・若林恵子も隣に座っている。 五十五歳。 膝の上には、ハルの写真を入れた小さなアルバム。「だから最初の晩は、空耳だと思ったんです」「玄関を引っかく音ですね」「はい」 恵子が頷く。「ハル、散歩から帰ると前足で玄関のドアを二、三回引っかく癖があったんです。外からカリカリって。私たちが鍵を開けるまで」 環は少し引
第23話 毎晩一段ずつ増える階段 長谷川由紀子の家の階段は、十三段だった。 少なくとも、二十八年間ずっとそうだった。 この家を建てた夫が亡くなったあとも、そこだけは変わらなかった。 一階の廊下から二階へ上がる、木製の直階段。途中に踊り場はなく、十三段を上がれば小さな廊下へ出る。右が夫婦の寝室、左が息子が使っていた部屋、その奥に物置がある。 見慣れすぎて、普段は段数など意識したこともない。 それなのに九日前の夜、由紀子は十四段目を踏んだ。 午前零時すぎだった。 台所の水を飲み、二階の寝室へ戻ろうとしたとき、途中で妙な違和感があった。 一、二、三。 何となく数えた。 十三。 そこで二階に着くはずだった。 ところが足の先には、もう一段あった。「……あれ?」 十四段目を上がる。 普通に二階の廊下へ出た。 眠かったのだと思った。 翌朝、改めて数えた。 十三段だった。「やっぱり寝ぼけてたのね」 そう思って終わるはずだった。 二日目の夜。 十五段。 三日目。 十六段。 それから毎晩、一段ずつ増えた。 朝になると十三段へ戻る日もあったが、六日目からは昼間も増えたままになった。 由紀子は定規まで持ち出した。 一段の高さ。 踏み板の奥行き。 一階から二階までの高さ。 どこも以前と変わらない。 それなのに数えると十八段ある。 息子へ写真を送った
第22話 眠ると、知らない町へ行く男 眠るたび、知らない町へ行く。 最初の夜、藤原慎吾は夢だと思った。 夢なのだから、それで当然だった。 目を開けると、見覚えのない商店街の真ん中に立っていた。 空は夕方だった。西の山際に太陽が沈みかけ、細い道路には長い影が伸びている。 八百屋の軒先には木箱に入った大根と白菜が並び、道路の反対側には赤い丸型ポストが立っていた。小さな電器店のガラスにはブラウン管テレビが何台も並び、店先の看板には、慎吾が子供のころですら見た記憶のない古い字体が使われている。 車は走っている。 人もいる。 ただし、何もかも古い。 昭和の町を再現した観光施設のようにも見えたが、妙に生活感があった。 洗濯物。 魚を焼く匂い。 自転車のブレーキ音。 子供を叱る母親の声。 映画のセットなら不要なものまで、すべてがそこにある。「どこだ、ここ」 慎吾はスマートフォンを探した。 ない。 財布もない。 ポケットには何も入っていない。 代わりに、自分が着ている服が違っていた。 寝る前はスウェットだった。 今は白いシャツに灰色のズボン。 靴も、いつ買ったのか分からない黒いスニーカー。「夢だな」 口にすると、少し安心した。 頬をつねった。 痛い。「夢って痛いんだっけ」 そこで目が覚めた。 ◇ 二日目。 また同じ町だった。 今度は、昨日立っていた商店街の入
第21話 葬儀に知らない女が来る 父の葬儀に来た女を、親族の誰も知らなかった。 焼香の順番を待つ列の、一番後ろに立っていた。 年齢は四十代後半から五十代くらい。黒いワンピースに真珠のネックレスという、ごく普通の喪服姿だった。 遺族席に座っていた黒田沙織が最初に気づいたのは、その女だけが遺影を見ていなかったからだ。 参列者は焼香台へ進み、遺影へ頭を下げ、それから棺のほうへ視線を向ける。 女は違った。 会場へ入ってきた瞬間から、ずっと棺だけを見ていた。 それも悲しそうにではない。 笑っていた。 口元へ、ごく薄い笑みを浮かべて。「……誰?」 隣に座っていた弟の浩二へ、沙織は声を落として尋ねた。「知らない。姉ちゃんの会社の人じゃないの」「違う」「親父の知り合いだろ」「お父さんの知り合いなら、あんたのほうが知ってるでしょう」「七十八の親父の知り合い全部把握してる息子なんかいないって」 兄妹が小声で言い合っている間にも、女の順番が来た。 焼香をする。 遺影へは、最後まで一度も目を向けなかった。 そして棺の横へ立つ。 父・黒田宗一の顔を覗き込んだ。 女の笑みが少し深くなった。 沙織は思わず立ち上がりかけた。 死者を前に笑っている。 それだけなら、泣きそうな顔がそう見えただけかもしれない。 しかし女は、棺の中の宗一へ向かって何かを囁いた。 沙織には聞こえなかった。 そのあと女は、遺族席へ歩いてきた。「ご愁傷さまでございます」